何者かになるのに疲れてしまったあなたへ。『車輪の下で』から受け取ったメッセージ。
二十歳を過ぎた頃から、自分は何者かにならなければいけないという感覚を抱えていました。せっかくここまで真面目に勉強していい大学に入ったのだから、社会に有用な人物とならなければいけないという使命感、もしくは責任感のようなものがのしかかっていました。それまで学校の勉強と一般的な娯楽しか知らなかった自分には、どんな人物になったらいいのか見当がつかず、色々なことを試してみました。学生団体の運営をしてみたり、海外を放浪したり、起業をしたり。どれも楽しかったし自分のためになったと思うんですが、しばらくすると「本当にしたいのはこれじゃない」という感覚が生まれてきました。
今はドイツで大学院生をして地理情報の研究をしていますが、僕は何者にもなっていません。何者でもない自分を認めるのは悔しくて、恥ずかしくて、もう何者かになった人やなろうとしている人を羨ましく思ったりもしました。
この本は何者かになることを目指す意味や何者でもない自分を見つめ直すきっかけをくれました。
あらすじ
『車輪の下で』の主人公ハンスも僕と同じような悩みを抱えています。彼の場合は一昔前のドイツの神学校という設定ですが、勉強に追われ、何者かにならなければならないという使命感を抱えています。
彼も社会の役に立つ何者かになることを周りに期待され、自分自身でもクラスメイトより勉強ができることに優越感を抱いて生きてきました。そんなハンスに人生で初めて親友と呼べる友人ができました。彼はそのことをうれしく思うと同時に、自分の勉強をする時間が取れなくなってしまったことを気にしていました。そんななか、その親友が学校を抜け出し退学になってしまいました。ハンスは親友に対してなにもすることができず、心を病んでいきます。
ハンスはもう優秀ではなくなり、何者かになることも諦めてしまいます。そして自分の出身の田舎町に帰りゆっくりと時間を過ごすと、今まで近くにあっても目に止まらなかった自然のすばらしさや、自分が馬鹿にしていた労働の尊さに気が付きました。
本から考えたこと
この本から僕が受け取ったメッセージは、何者かにならなければならないというのは、自分で自分自身にかけた呪いに過ぎないということです。たとえあなたが社会に有用な何者かにならなかったとしても、それであなたの人生は終わらないし、必ずしも何者かになる必要もありません。何者でなくても、あなたはあなただし、何者でもない"ただのあなた"でも変わらずに接してくれる人こそあなたが大切にするべき人たちです。あなたが何者かでなければ失望して関わりを失ってしまう人たちは、あなたの”何者かである”という属性に関心があるだけで、あなた自身という人間に興味があるわけではありません。
僕自身、何者かにならなければならないという焦りから、友達とくだらないことをして過ごす時間や、恋人とゆっくりする時間は非効率的だという考えを持ったことがありました。そういった馴れ合いは一種の娯楽でしかなく、"何者かになる"というゴールのための一時的な休憩なのだと考えていました。
しかし、目の前にいる自分の友人を大切にできないで、社会に有用な人になることに価値があるのだろうかと最近は考えています。もちろん社会をよくするために努力するのはすばらしいことだし、そのような努力をしている人をリスペクトしています。自分自身も努力を続けていこうとは思っています。僕が伝えたいのは、何者かになるという人生の一つの達成は、たくさんある人生の達成の種類のうちの一つであって、また、それはあなたの権利であって義務ではないのです。決してそれによってあなたという人間が規定されてしまうわけではないのです。
これはしばらくの間自分の中で葛藤していたことに対する現状の自分なりの考えです。同じような悩みを持った人の、考えるきっかけになればと思います。