たかのサイコロ日記

地理情報を勉強しているベルリンの大学院生が、考えていること。

失敗からなにを学べるか。『昭和史 1926-1945』。

日本の近現代史に興味があって、『昭和史 1926-1945』(半藤一利)を読みました。 

昭和史-1945 (平凡社ライブラリー)

昭和史-1945 (平凡社ライブラリー)

 

 
もともと歴史には興味がありますが、特に日本がどうやってアジアを侵略し、どのように負けていったのかをきちんと理解したかったんです。日本に侵略された国の人たちに対して、自分の国がなにをしたのか知らないのは申し訳ないし、日本人は戦争から何も学んでいないと思われるので、自分の中で整理することにしました。

ちなみにドイツでは学校で近代以降の戦争史をかなりの時間をかけて教えるらしいですが、日本の学校では(僕が世界史選択だったこともありますが)、第二次大戦で日本軍がどのような意図を持ってアジアを侵略し、多くの戦死者を出しながら敗れていったのかを教えられた記憶はありません。

歴史の流れを一つ一つ書いていくととても時間がかかってしまうのでそれは専門家の人にお任せするとして、僕はこの戦争での敗戦から現代の日本人はなにを学べるかの、自分なりの意見を書いておこうと思います。

 

・熱狂に任せて思考を停止してはならない

日露戦争で勝利した日本は、ついに欧米列強と肩を並べたと喜んでいました。たしかに、いきなり来たアメリカに不平等条約を突きつけられて欧米コンプレックスを持っていたであろう日本からしたら、日清戦争での中国との勝利に加えて、ロシアへの勝利は、ついに欧米諸国とも対等に渡り合えるんだという気持ちになるのもわかります。

そうした熱狂的な雰囲気の中で、自分たちはもっとできる、アジアのNO.1にならないといけないと、日本はこれ以上は勝ち目のないさらなる戦争に突き進んでいってしまいました。勝っている時に引き時を見極めるのはとても難しいですよね。ギャンブルで勝ち続けている時に席を離れられないのと似た気持ちかもしれません。

しかしその熱狂にとらわれるあまり、長期的な展望や実際の方法論がおろそかになってしまっていました。

雰囲気に流されやすいのは現代の日本人にも共通していることだと思います。飲み会で一気飲みをして気持ち悪くなったり、ハロウィンで公共の場所で暴れたりするのは、熱狂に任せて理性的に考えることを放棄してしまった結果です。

日本人は秩序を守る国民だと自分たちでは思っていますが、一人だとルールを守るけれど、集団で責任の所在が不明確になると雰囲気に流されて、ルールや秩序に対する考えがルーズになるのが日本人の特性だと思います。

 

・都合の悪いことを無視し続けてはならない

日本軍はノモンハン事件(モンゴル-満州間の国境で起こったソ連と日本との戦闘)でソ連の近代的な装備を目の当たりにしました。戦死者でいうと日本は17,700人、ソ連は25,655人なので日本は負けていないという見方もできますが、結局は国境線はソ連側が主張する通りに認められました。この戦闘の時点(1939年)で、日本の装備は旧式で量も十分ではなく、拡充が必要なことは明確でした。それにもかかわらず、軍はこの敗戦の原因を"国家伝統の精神威力"が不足していたことに求め、太平洋戦争の開戦(1941年)まで一年半ほどの時間があったにもかかわらず、装備の拡充を怠りました。装備の不十分さという自分たちに都合の悪い事実を見ないようにして、”精神威力”や”士気”という代わりの言葉に逃げていました。不十分な装備で資源や人口が勝っている国に勝負したところで勝ち目がないことは火を見るより明らかです。

現代の日本ではたとえば、現行の社会保障システムをそのまま数十年後に持続することは不可能だということは、なんとなくほとんどの人が感じていると思います。基本的には納税者(または納税額)を増やすか、社会保障を薄くしなければ、高齢者比率が増加しつつ全体の人口が減少するフェーズで社会保障システムを維持する方法はないはずです。それこそが現代の日本社会が取り組まなければならない一番の課題のはずなのに、今の日本はその都合の悪い現実から目を背けて、具体的な方法論の検討を先延ばしにし続けています。

それはまさにノモンハン事件での敗北から太平洋戦争の開始までの準備期間のアナロジーではないでしょうか。そこに明らかな事実があるのに、自分たちに都合が悪いからと目を背け、他のことに無理に注意を向けているように感じます。

 

・やめる勇気を持たなければならない

第二次大戦時の日本軍では戦況にそぐわない、意味のあまりない攻撃が数多く行われました。その原因は、攻撃を計画した時とそれを実行する時の状況に差があったからです。計画時にはすばらしいものだったプロジェクトも、時間がたって状況が変わればベストな選択肢でなくなることは十分にありえます。その時に、時間と手間をかけて作ってきたプロジェクトをやめる、または変更することができるか。それとも上げた拳は下げられないと、意味があまりないことを知りながらもそのまま突き進んでしまうのか。途中でもやめるという決断を下すことが、全体としての損害を最小限にするために必要不可欠です。

計画時には必要だった道路や公共施設が、実際に建築する時には人口が減って必要性が薄れているのにもかかわらず、予算がついたから、このプロジェクトで食っている人がいるからと、やめられずに作り続けられています。現状から判断して今やっていることが間違っていると気付いたのなら、たとえその道を途中まで来ていたとしても、間違っていると認めて引き返すべきです。

 

歴史を学ぶことは大切ですが、受験勉強のような詰め込み型の暗記では歴史からなにかを学ぶことはできません。著者もそのことについて、以下のように述べています。

"きちんと読めば、歴史は将来にたいへん大きな教訓を投げかけてくれます。ただしそれは、私たちが「それを正しく、きちんと学べば」、という条件のもとです。その意志がなければ、歴史はほとんど何も語ってくれません。"

歴史は知っているだけでは意味はありません。そこから自ら学びとろうとしなければ歴史は何も教えてはくれません。

同じ過ちを繰り返さないためにも、あなたも歴史から学びませんか?

昭和史-1945 (平凡社ライブラリー)

昭和史-1945 (平凡社ライブラリー)